監視下生活


一人になりたい。
私は現在、非常に厳格な監視に晒されている。

それはもっとも人目を隔てるはずのトイレにおいてさえ、徹底したものだ。

男性の方には理解いただけないかもしれないが、
トイレの個室に入って、ふと顔を上げる。するととちょうど目の高さに
こう書いてあるのだ。

「もう一歩前へ!!」


……見てるのか。

理由も断りの言葉もない。

現在、足を置いている位置よりさらに一歩前進せよ促していることから、
監視者は私の現在地を知っている者ということになる。
しかもこの「今や」というタイミングでメッセージを投げることの出来る者は
そう多くはないはずだ。

そして個室を出、洗面台で手を洗おうと蛇口に視線を下ろすと、そこには

「きれいに使っていただきありがとうございます」
の文字が……!


見てるのか。
何という早業であろうか。
私が個室から出てきた足の運びから、この蛇口を選ぶであろうことを見極め、
私に見つからないように瞬時にシールを貼り、身を隠す。

そしてその行為は同時に周到な準備も要する。
私の普段の素行を監視下におき、
私がその日その洗面台を常識的な使い方で扱うことを予測したという
背景がなければ成り立たない。

こう考えると先の「もう一歩前ヘ!!」も、
私がトイレ内を汚しそうな人物であると判断されたかのような印象を受けるが、
それは誤解である。
たまたまそのときの私の位置にヒヤっとした者が念を入れたのであって、
決して私の日常的現行の結果ではない。

証拠として、その類のメッセージは大抵、縦長の紙に毛筆で書かれている。
洗面台の鏡に貼るシールを印刷する手間とは、緊急性において格段の違いがある。

シール会社をタウンページで調べ、手配、値段の交渉、デザイナーへの発注、クレーム、
返品、仲直り、契約料の振込みをすることと比較すれば、
硯で墨をすり文鎮と筆を用意するなど、
どれだけ個人的でインスタントな出来事であろうか。

「もう一歩前へ」の張り紙には、
「!」マークも頻発している(たいがい2つ並んでいる)ことも強力な裏づけとなる。
ここからもメッセージの書き手が当時いかに慌てていたかが見て取れるというものである。

そしてさらに監視の目は、もっと公共性の高い場においても
その手綱をゆるませることはない。

自宅からの最寄り駅、階段をのぼり、ホームを歩いているとき、
それは目に入った。
歩きながら横目で見た鏡、ふと足を止めるとこうだ。

「あなたも駅も美しく」。



…見ている……!


……どうして、私が美しいことを知っているのか…。
…はぁ……ここから出てくるのは感嘆のため息ばかりだ。
私はこれを発見したとき、めまいを覚え、そのままホームに倒れこむところだった。

もうダメだ、この監視が緻密、且つ極めて科学的に行われている。
私の監視者は独断ではなく、事実に基づいた客観的な判断を下したのだ。
敵ながら、信頼できる人物だ。

また、この素晴らしい監視者は、こちらにも完璧を求めてくる。

たとえばこうしてキーボードに向かっている間、
彼は私のどんなタイプミスも、決して見逃さない。

何か間違いを犯そうものなら、単語の誤入力には赤の波線、
文法的な誤りには緑の波線で注意が促される。

それ以外のことについては、指摘するとこちらのプライドを傷つけそうなものは、黙って自分で直している。
でしゃばり過ぎない内助の功を美徳としているのだろう。
小さなことに目くじらを立てると思われたくないのかもしれない。
案外、自意識過剰な人物である可能性もある。

私の打ち込んだ文が監視者本人の理解を越える、または理解に値しない場合には
一旦、一文全てに緑線を引いたあと、やっぱり後で取り消したりしている。

自分の間違いを素直に認めているのだ。
こういうところからも断定的でない思慮深さを感じて胸が熱くなる。
なに、誰しも間違いはあるのだ。かまうことはない。
だいたい書いている本人すらわかっていないのだ。

それゆえに時々自分の書いた文章を、ツールを使って要約を作らせたりすることには、心苦しく思っている。

ワープロソフトという性格上、そこに打ち込まれるテキストには
学術論文からビジネス文書までありとあらゆる文章が想定されるが、
うちの監視者は、決して根をあげることはない。

いかなる文章であろうとも、監視者は必ず要約をやってのける。

念のために説明をすると要約ツールというのは、
作成された文章の中からキーとなる文、もしくは言葉の連なりが取捨選択され、
蛍光ペンのように色がついてくるという仕組みである。
ここで最も難解なのは取捨の「取」の部分である。

私はこのツールを使うたび、いつ

『要約した結果、あなたの文章はなくなりました』
といわれるかヒヤヒヤしている。

が、今のところ、ただの一回として色のつかなかったことはなかった。
根底にあるのは、どんな駄文にも一つくらいいい所があるだろうという
力技にも似た人道的信条である。

叱って伸ばす、誉めて伸ばす。
その基本姿勢はいかなる状況下でも崩れることはない。理想的な教育者である。

そしてその手の立派な方というのは四六時中一緒にいると息が詰まるものである。

一人になりたい。




※この文章を要約ツールにかけてみました。

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